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七十七ビジネス情報第33号

シリーズ 先人に学ぶ

江戸・東京の中の仙台

 徳川家康は征夷大将軍になったあと江戸に幕府を開き、ここに大城郭を築く一方、参勤交代制を定め、全国の大名達に命じてその家族を江戸に住まわせた。このため江戸には各藩の藩邸が並び、仙台藩も江戸市内外にいくつもの藩邸を有した。それは今でも地名などに残り、江戸における仙台藩の大きさを示している。当時江戸藩邸において活躍した人も少なくなく、そうした足跡を辿ることによって「江戸・東京の中の仙台」について考えてみたい。



宮城 建人

江戸築城と仙台藩の役割

 江戸は十二世紀はじめ頃までは草深い原野であった。ここに最初に居館を構えたのは秩父氏から分出した江戸四郎重継であり、館は現在の皇居のある丘陵に設けられた。江戸氏は十五世紀はじめに没落し、次いで1456年に大田道灌がこの地に築城した。太田氏は扇谷上杉氏に仕えたが、主君の疑念を招いて暗殺され、江戸城は扇谷上杉氏の支配下に置かれた。その後、北条氏が武蔵に進出し、城はその手に落ちた。

 ここに徳川家康が入城したのは1590年(天正18)である。豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして北条氏の居城小田原城を攻め、これを陥落した後、戦功第一の家康に北条氏の旧領をそっくり与え、その代わりにそれまで家康が領有していた駿河、遠江、三河など五ヵ国を取り上げた。いわゆる関東転封である。

 関東に移るとして、居城をどこにするかは家康にとって大きな問題であった。当時の江戸城は貧弱な小城に過ぎず、通常であれば、北条氏の城下町であった小田原か、さもなければ伝統ある鎌倉にするのが常識といえた。しかし家康は江戸を選んだのであり、その後の発展を考えると正しかったといえる。

 ここは江戸湾に面して海上交通の便がよく、東海道・甲州街道・奥州街道など主要街道にも通じており、関東各地への交通路も江戸近辺に集中していた。もとより江戸の東部は「汐入りの茅原」であり、西は「武蔵野」台地に連なり、開拓が前提となったが、当時の水利土木技術の進歩がそれを可能にした。

 家康が入る前の江戸の海岸線は現在の田町、日比谷、霞ヶ関、新橋あたりまで入り込んでおり、日比谷から大手町にかけては大きな入り江となっていた。また日本橋、京橋、有楽町にかけての一帯は海面すれすれの低地で、ところどころに小高い場所があり、そこに小さな集落があった。

 家康は江戸に入るや、江戸城の修復にかかるまえに道三堀と呼ばれる舟入堀を開掘し、その堀沿いに町人町をつくった。そして西の丸の築城にかかり、その際の堀の揚げ土で日比谷入江を埋め立てた。

 当初の工事は譜代大名に行わせていたが、関が原合戦に勝ち、家康が征夷大将軍になるや、全国の大名に命じて大規模な海岸埋め立て工事を始め、神田山を崩してその土で外島洲崎の低湿地を埋め立て、今の日本橋から新橋付近までの下町を造成した。この普請のために大名七十家が起用され、これを十三組に編成して工事を担当させたが、伊達藩は大藩のため一家で一組の担当となった。

日々谷見附跡(政宗が枡形を築造)


 外島洲崎の埋め立てが終わるや幕府は本格的な江戸城普請にかかり、藤堂高虎がこれを指揮した。本丸、二の丸、三の丸と進み、1606年には当時将軍になっていた秀忠が新装なった本丸に移った。

 1607年(慶長12)の工事の際、伊達政宗は上杉、蒲生、最上、佐竹などの大名と共に堀の普請に従事した。これに関連して江戸城北部の防備と平川の治水をかねて神田、お茶の水の掘割を行い、湯島台地と駿河台を切り離すという大工事が行われ、政宗はお茶の水の掘割り工事を担当した。これには次のようなエピソードが残されている。

 ある日、秀忠は政宗を相手に碁を楽しんでいた。秀忠は初段、政宗は二段であったが、秀忠は一石ごとに「政宗にしよう」といった。政宗は独眼であり、「政宗にする」というのは一眼にするということで、相手の石を殺すという意味である。これに対して政宗は「本郷から攻めようか」といった。江戸城にとって本郷は弱点であり、対局後、秀忠は「本当に本郷は危ないか」と問いただし、政宗は「いかにも危険です。私が掘割リ工事をします」といったという。これは碁の本因坊家に伝わる話である。


 家光が三代将軍になったあと、1629年(寛永6)に新たな工事が計画され、このときには政宗は芝口・日比谷門の枡形石垣の修復を担当した。寛永13年(1636)に最後の外郭修復工事が行われ、家康以来、約半世紀かかった工事は終わり、ここに日本最大の江戸城が完成した。


江戸屋敷の変遷

 家康と政宗はかねてより親密な臣従関係にあり、そのため仙台藩主は代々松平の姓と陸奥守の官職を与えられ、藩主の嫡子が成人になると、しばしば将軍の名の一字を与えられた。これは幕府の有力大名に対する統制策といえたが、藩主にとっても権威を保つうえで好都合であった。それだけに政宗以下歴代藩主は将軍に対して常に臣従の儀礼に心を配った。

 幕府は1635年(寛永12)に武家諸法度を改正して参勤交代制度を定め、すべての大名に対し江戸と国許の間を1年交代で行き来するよう求め、同時に諸大名の妻子を江戸に住まわせる、いわゆる江戸在府制を決めた。この両制度のため幕府は各大名に対し江戸市内外に土地を与え、そこに住まわせた。これが江戸屋敷である。

 もともとは江戸入府を果した家康が譜代の諸将を江戸に移し、その住居を江戸城周辺に与えたのが始まりで、後年外様大名にまで広げたものであるが、政宗の場合は1601年(慶長6)に伏見城内で家康に謁見した折、江戸に屋敷を下賜されており、他の大名に比し早い時期に屋敷を有している。そのとき拝領した屋敷は外桜田に上屋敷と本屋敷、愛宕下に中屋敷、芝増上寺東脇に下屋敷と全部で四つであった。

 江戸屋敷は大名の格によって規模等は異なっていたが、基本的には上屋敷・中屋敷・下屋敷・蔵屋敷よりなっていた。上屋敷とは各藩の江戸役所的機能を有し、藩主が参勤で江戸詰めの時にはそこで政務を執り、同時に宿舎にもなっていた。そのため、江戸城近くに配置されることが多かった。

 中屋敷は主に藩主の正妻・嫡子の住まいであり、上屋敷からあまり遠くない場所に割り当てられた。仙台藩の場合、藩主の嫡子が住んでいるところを本屋敷と呼んだが、後に中屋敷が本屋敷を兼ねるようになり、すべて本屋敷と呼ばれるようになった。

 下屋敷は火災等の場合の避難場所として用いられたため、江戸市内のはずれ、または郊外に置かれた。時には前藩主の隠居所となり、また藩主の別荘的役割を果すようになった。

 下屋敷には藩の物資を貯蔵したり、これを販売したりする商品取引所的な機能を果すものもあり、これが独立したのが蔵屋敷であった。

 江戸では1657年(明暦3)に「明暦の大火」(振袖火事)があり、これによって江戸城下の約6割が焼失したため、災害対策として都市計画の変更を余儀なくされ、その一環として諸大名の屋敷替えが大幅に行なわれた。仙台藩の江戸屋敷も例外でなく各地に移転し、その結果江戸屋敷として記録にのこっているのは十数ヶ所に上る。

外桜田屋敷跡
(うしろに見えるのが日々谷公園野外音楽堂)


 まず上屋敷であるが、当初の外桜田屋敷は今の日比谷公園の音楽堂周辺にあり、政宗から三代綱宗までの約60年間ここに存在した。政宗の時代には、家康が三度、秀忠・家光が各四度この屋敷を訪れており、政宗もここで生涯を閉じている。この上屋敷は明暦の大火のあと上地(返上)となり、代わりに麻布に屋敷が下賜された。当時麻布は江戸城下でも郊外に位置していたため、上屋敷の機能は一時的に江戸城に近い愛宕下の中屋敷に移された。

 愛宕下が上屋敷であったのは15年間と短く、1676年(延宝4)に藩主亀千代が綱基と名を改め、初入国することに併せて、新たに芝口(今の汐留駅周辺)に上屋敷を移した。これが浜屋敷であり、以後幕末までの約二百年間、仙台藩の江戸における拠点として機能した。

 敷地は2万4千坪余の広大なもので、屋敷内には藩主とその家族の住居、執務室があり、そのほか、家臣団の書院や詰所、来客用の数奇屋・小書院、中間・小者・女中などの詰所、そうした家臣たちの宿舎や倉庫などさまざまな施設が設けられていた。さらに学問所・武徳殿・能舞台などの構築物、馬場・庭園なども完備されており、小規模な城郭といえた。

 東隣が播州竜野の脇坂淡路守、西隣が会津の松平肥後守の屋敷で、屋敷の東北部で汐留川(仙台川ともいう)に接していた。近年における発掘調査の結果、ここに大きな舟入場が発見されている。汐留川は深川方面を結ぶ重要な交通路であり、下屋敷時代に藩の物資の集積場・倉庫の役割を担っていたと解されている。

 この屋敷は明治維新後、新政府に接収されたが、東京・横浜間に鉄道が建設されたときには東京側の起点となり、新橋駅(当初は汐留停車場)となった。その後、東京駅の開業に伴い貨物駅となり、名称も汐留駅になった。その汐留駅も今はなくなり、高層ビルが林立する超近代都市に変身している。

芝上屋敷跡(日本テレビ本社ビル)


 次に本・中屋敷についてみると、外桜田の本屋敷はいまの帝国ホテル付近にあったが、明暦大火のあと上地となり、代わりに麻布白金台に替地が与えられた。さらに翌年には品川大井屋敷に変更になった。

 愛宕下の屋敷は上屋敷機能が浜屋敷に移ったあと、再び中屋敷に戻り、後に本屋敷機能を兼ねるようになった。

 この時点において上屋敷は浜屋敷、本・中屋敷は愛宕下屋敷、下屋敷は麻布屋敷と品川大井屋敷ということになった。

 なお、愛宕下屋敷内には塩釜神社が祀られていた。もともとは浜屋敷内に分霊していたものを1856年(安政3)に愛宕下屋敷内に移したもので、一般の人達にも参拝を許し、安産の神様として信仰を受けていた。明治に入ってからも神社は存続し、現在も港区立塩釜公園内の一角に鎮座している。


下屋敷のいろいろ

 下屋敷は各地に設置されており、判明しているものは10箇所に及んでいる。短期間で廃止されたものもあり、明治維新まで存続したのは4箇所にとどまる。最初に幕府から拝領した芝増上寺東脇の下屋敷は寛永年間の末に芝口に移転し、これが後に上屋敷になった(前述)。

 仙台坂にゆかりがある屋敷が二つあり、一つは品川大井屋敷、いま一つは麻布屋敷である。まず品川大井屋敷であるが、今の東大井四丁目にあり、前述のように麻布白金台の替地として下賜されたものである。今の仙台坂は東大井四丁目から南品川五丁目に下る坂をいうが、もともとはこの坂の南にある海晏寺と泊船寺との間にある坂を指し、別名「くらやみ坂」と言われた。樹木に覆われて日中でも暗かったのであろう。

 下屋敷は坂の頂上附近にあった。ここは伊達騒動の原因をつくった三代藩主綱宗が隠居所として長期間使用したところである。綱宗は将軍家綱の一字を授けられて元服し、19歳で藩主になったが、叔父の伊達宗勝の干渉や家老の対立などもあり、次第に酒色におぼれるようになった。ご乱行のうえ吉原の高尾大夫を斬った話は有名である。このため一族の主だった人が相談して、幕府の処罰を受ける前に綱宗を隠居させることにし、綱宗はこの屋敷に住むことになった。ここでは酒を断ち、和歌・書画・彫刻・能楽などに打ち込み、品川隠公と呼ばれたという。

 仙台藩の江戸屋敷のほとんどは明治初年に明治政府に取り上げられたが、この品川大井屋敷の一部のみは伊達伯爵邸として残された。

品川大井屋敷跡(仙台味噌醸造所)


 この下屋敷の一角に仙台藩士のための味噌醸造所があり、江戸時代後期には江戸市中に販売され「仙台味噌」と呼ばれた。当時の江戸では「江戸甘」といわれる味噌が主流で、甘くて仙台藩士の口には合わなかった。そこで屋敷内で仙台と同様の味噌を作り、藩士の要望に応えたのであった。

 この味噌醸造所は明治に入り、仙台市内で味噌・醤油を醸造していた八木家に譲られ、現在も「仙台味噌醸造所」として味噌の製造販売を行っている。店先には、今では珍しくなった昔の大きな味噌樽が置いてある。

仙台坂(麻布屋敷跡)


 もう一つの仙台坂があるのが麻布屋敷である。品川大井屋敷と同じ
「明暦の大火」のあと外桜田の上屋敷の替地として下賜されたもので、四代藩主の綱村の隠居所になったところである。坂の南部一帯に下屋敷がつくられたが、今の大韓民国大使館のあるところである。古来鶯の名所として知られており、松尾芭蕉の「うぐいすをたずねたずねて阿佐布まで」が有名である。


 下屋敷の一つに大崎袖ヶ崎屋敷がある。今の東五反田三丁目にある清泉女子大学のところにあった。五代藩主吉村のときに取得したもので、のちに吉村の隠居所となった。広大な屋敷で、明治になってから鹿児島藩主の島津公の屋敷となり、大正時代にJ.コンドルの設計によって島津公爵邸がつくられた。今は清泉女子大学の校舎になっている。

 愛宕下屋敷に隣接する宇田川町屋敷(新橋七丁目)は伊達兵部が下屋敷として拝領したもので、伊達騒動によって失脚した後、仙台藩の下屋敷になったが、のちに麻布六本木屋敷と交換された。

 その麻布六本木屋敷は綱村の弟村和が大名扱いになったときの屋敷であるが、のちに深川屋敷と交換された。このほか木挽町屋敷(銀座八丁目)、小塚原屋敷(南千住)があったが、仔細は不明である。

 このほか蔵屋敷として深川屋敷があった。東北から運ばれてくる米の貯蔵用倉庫として1698年(元禄11)に墨田川沿いに設

深川屋敷跡(隅田川沿い右側)

置された。今の江東区清澄一丁目の太平洋セメント工場周辺である。当時、深川屋敷には23棟の米蔵があり、10万俵余の米が収容できた。

 仙台藩は年貢米とは別に藩士知行米や農民の余剰米を対象に買米制を実施しており、両者併せて年間20−30万石に上る江戸廻米を行なっていた。これを輸送したのが千石船であるが、当初は石巻湊などを出て銚子湊に入り、ここから利根川舟運で江戸に運んでいた。その後、河村瑞賢の東廻航路の開発によって房総半島を迂回して品川に入港するようになり、品川から深川までは艀船で米を運んだ。江戸の消費米の四分の一は仙台藩米で賄われたという。

 これらによって得た収入の多くは参勤交代に伴う費用等に当てられた。当時の仙台・江戸間の往復はほぼ片道7泊8日で行われたが、仙台藩の参勤交代は華美に行なわれ、四代藩主の伊達綱村が初めて江戸に向かったときなどは、供の数は3,480人余に及んだという。万事派手であり、江戸在勤中の幕府・諸大名との交際費も多額に上り、仙台藩は実高100万石といわれながら財政はいつも逼迫状況にあった。かりに戊辰戦争で敗れなくとも財政的には破綻していたといわれる。


江戸屋敷の先覚者たち

 江戸屋敷に住む家臣には、江戸常住の者と国許から交代で派遣される者の両方がいたが、藩主が参勤交代で江戸にいるときには、その数は3千人(一説では5千人)に及んだという。原則として江戸屋敷内の「長屋」に住んでいたが、長屋は江戸屋敷の外郭線に沿って建てられていることが多く、芝口の上屋敷の場合、表門(正門)の両側、左右の外郭線および屋敷左側の一郭にまとめて建てられていた。愛宕下の本屋敷や各地の下屋敷にも長屋が置かれていた。

 長屋の規模は家格・役職・知行高などによって異なるが、一般の家臣は居室のみで、組士クラスになると共同使用になっていた。江戸詰めの家臣はほとんどを藩邸内で過ごしており、外出の場合には鑑札を必要とした。

 そうした中で何人もの日本を代表する先覚者達が生まれた。なかでも工藤平助と林子平が有名である。

 工藤平助(1734−1800)は和歌山藩医の子として生まれたが、仙台藩医工藤丈庵の養子になり、後に養父の跡を継いで仙台藩医として江戸に在住した。医師として優れていたほか、幕府の要人や蘭学者たちと広く交わり、そうした中で執筆したのが「赤蝦夷風説考」であった。これはロシア(赤蝦夷)の地理・歴史・文字などを論じ、さらに当時のロシア動向と日本がとるべき蝦夷地対策について述べたものである。幕府はこれにもとづき老中田沼意次の了解の下に、蝦夷地(北海道)の調査と開拓に乗り出したが、田沼が失脚したため中止となり、関係者は処罰された。幸い平助は処分を免れたが、その後の蝦夷地をめぐる国際情勢の変化を考えると、平助の意見はまさに卓見であった。

 一方、林子平(1738−1793)は幕府の小納戸衆・書物奉行の子として生まれたが、父が同僚とのいざこざで浪人したため、町医者であった叔父林従吾に引き取られて養子になった。しばらくして実姉が六代藩主伊達宗村の側室になり、それを機に叔父は仙台藩医に取り立てられ、兄も大番士になった。その後宗村が逝去したため兄は仙台に住むことになり、子平もこれに同行し、部屋住みとなった。仙台では畠中太仲、工藤平助はじめ多くの学者について学び、江戸にもしばしば出かけ、さらには長崎にも赴いて蝦夷地や海外の情報入手に努めた。

 そうしてまとめたのが「三国通覧図説」と「海国兵談」であった。三国とは朝鮮・琉球・蝦夷を指すが、記述の中心は蝦夷地であった。ロシアが蝦夷地を自国の領土にする恐れがあり、いち早く蝦夷人への教化を進めて日本の国土にすべきと提言した。一方、「海国兵談」では、日本は四方を海で囲まれており、いつ外国から攻められるかも知れず、早期に大砲などで防備を固める必要があると指摘した。さらに仙台藩に対しては藩政改革も提言しており、その考え方はまことに適切といえた。しかし、あまりにも革新的でありすぎたため、当時思想統制をしていた松平定信によって禁固に処せられ、著書は絶版となり、翌年獄死した。しかし、翌々年にはロシアは蝦夷地を襲っており、子平の指摘は正しかったといえる。子平は蒲生君平、高山彦九郎と共に「寛政の三奇人」と呼ばれ(奇人とは偉大な人という意味)、半世紀たった天保年間になって幕府は子平を赦免している。

 江戸屋敷の逸材としては大槻玄沢・磐渓親子もあげられる。大槻一族は葛西氏の流れをくむ地方豪族で、玄沢の父は一関藩の医員であった。大槻玄沢(1743−1813)は江戸に出て蘭学の大家杉田玄白、前野良沢に学び、二人の名をとって玄沢としたのであるが、学塾芝蘭堂を開いて、多くの門人を育成した。後に仙台藩侍医になり、さらに幕府の蘭学和解御用にもなった。

 玄沢の子、磐渓(1801−1878)は儒学を志して昌平黌に学び、在学10年のあと畿内、長崎などを歴遊して碩学大家と交わったが、西洋事情にも通じ開港論者として知られていた。西洋砲術を学び、儒学と砲術を教えていた。江戸藩邸では藩主に対し侍講を行い、ペリーが来航した折には、藩主の命によって浦賀の調査にも当った。さらに仙台において養賢堂学頭になり、戊辰戦争の折には、家老但木土佐のブレーンとして活躍した。そのため、敗戦後は獄に入り、のち許されてから東京で住んだが、優れた開国論者でありながら、仙台藩を佐幕路線に導き、敗戦に至ったのは惜しい限りである。なお、磐渓は外国語の翻訳にもかかわっており、「共和政治」という言葉は磐渓の造語といわれる。

 磐渓の思想を強く受けたのが但木土佐(1811−1869)であった。但木家は代々家老職を務めてきたが、土佐は家老として藩主伊達慶邦を助け、財政窮乏に対して殖産興業に努める一方、兵制の改革を手掛けた。和親開国を主張し、戊辰戦争のときは奥羽越列藩同盟を結成して政府軍と戦ったため、敗戦後は反逆者の烙印を押され、麻布の江戸屋敷において処刑された。

 江戸屋敷において活躍した今一人に玉虫左大夫(1823−1869)がいる。玉虫家は武芸の家であったが、祖父の時代に行政官として名を上げ、父は鷹匠頭として300石を取っていた。左大夫は父が早世したため、荒井家の養子になったが、妻に先立たれたため江戸に向かい、幕府儒官の大学頭林復齋の私塾に入り、塾長になった。次いで仙台藩の学問所である順造館において監学となった。

 その後、幕府の函館奉行堀利煕が蝦夷地視察の折、近習として随行し、そのときの視察記が「入北記」である。これが認められて1860年に幕府が日米修好通商条約締結のため訪米使節団を派遣する際には従者に加えられ、そのときの見聞記が「航米日録」である。その内容は鋭い観察と洞察力によって仔細に書かれており、高い評価を得た。帰国後、藩主伊達慶邦に対し、この「航米日録」を献上し、その功績により小姓組並みとして迎えられた。その後は諸藩の探索を命じられ、その記録も多岐に亘っている。のちに大番士となり、さらに養賢堂指南統取に任じられた。奥羽越列藩同盟ができるや軍務局議事応接頭取として手腕を振るったが、敗戦となり捕らえられて投獄された。藩内の勤皇派から戦争責任を問われ、家跡没収のうえ、牢前での切腹を命じられた。

 以上のような人達のほか、大童信大夫、富田鉄之助、高橋是清など多くの人材が江戸屋敷において輩出しており、江戸屋敷の果した役割は極めて大きかったといえる。


東京の中の仙台

 明治維新後、仙台藩の江戸屋敷は品川大井屋敷の一部が伊達家の邸宅として残ったものの、ほとんどは新政府の手によって収容され、わずかに仙台坂、仙台堀、千代橋の地名と仙台味噌が江戸時代の名残をとどめるに過ぎなかった。

七十七銀行日本橋支店(当初は東京支店)


 そうした中で1882年(明治15)、七十七銀行は日本橋南茅場町に支店を開設した。宮城県に本店がある企業の東京進出第一号である。茅場河岸をはさんで日本橋川に面し、水陸交通に便利のため倉庫が並び、銀行や会社も多く、そうしたことから、ここに支店を構えたと思われる。近くに東京株式取引所(現在の東京証券取引所)があり、その「場勘銀行」(主取引銀行)として、その発展に大きく貢献し、今日に至っている。

 次いで東京に進出したのは河北新報社であった。明治大正時代を通じて東京に進出した主要企業はこの2社のみであったが、太平洋戦争終結後は自治体や地元企業の東京進出が目立つようになった。まず宮城県庁が1947年(昭和22)に東京事務所を設置したのをはじめ、カメイ、東北電力、東北放送、仙台放送、仙台銀行などが相次いで支店(支社)を出し、仙台市も事務所を設立した。ごく最近では東北大学が丸の内ビル内に分室を設置するなど、東京重視の傾向が強まってきている。

 現在、東京に進出している主要企業等は20数社に過ぎず、そこに勤務する人員はわずか5百名程度にとどまっている。江戸時代に江戸に居住した仙台藩士は前述のように約3千人(一説では5千人)に及んでおり、それとの比較であまりにも少ないように思われる。もとよりITなど情報通信技術の発展によって、中央・地方間の情報連絡は密になってはいるが、人の交流によって得られる情報は格別のものがあり、各社・各団体の東京支店・事務所の東京探題としての機能はもっと重視されてもいいのではないだろうか。


 
                          (筆者の宮城建人は勝股康行のペンネーム)


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