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七十七ビジネス情報第30号

シリーズ 先人に学ぶ

郷土が生んだ日銀総裁

富田 鐵之助 伝

 仙台藩士、富田鐵之助は藩命により江戸に上り、ここで勝海舟の塾生となった。勝に見込まれ、その子息小鹿に随行して米国に留学、後にニューヨーク副領事になる。大蔵大書記官等を歴任して日本銀行創立委員になり、副総裁を経て総裁に就任。大蔵大臣松方正義と意見が合わず1年余で辞任。貴族院議員、東京府知事になり、さらに実業界に転進、富士紡績・横浜火災保険会社を創立して経営に当たった。この間、郷土のためにもいろいろと尽力した。



宮城 建人
米国に留学

 富田鐵之助は仙台藩士富田実保の四男として1835年(天保6)に仙台で生れた。富田家は重臣の末席に当たる「着座」の家柄で、その在所は東松島市の旧鳴瀬町小野にあった。富田家の始祖は富田壱岐氏紹で「伊達騒動」で有名な亀千代(伊達綱村)の守り役であり、
 大童信太夫
その屋敷は現在の鳴瀬一中の位置にあった。
 鐵之助は10歳のとき漢学を学び、次いで武術を身に付けたが、22歳のとき藩命により江戸に上って西洋砲術を修めた。そのあと藩の西洋砲術教授になったが、藩の命によって再度江戸に上り、蒸気機関および海軍術を学び、次いで勝海舟の氷解塾に入った。ここで勝の知遇を得て、その子息小鹿が米国に留学する際、同じく塾生であった庄内藩士の高木三郎とともに随行を命じられた。これは徳川幕府が許可した初めての海外留学で、富田は33歳、1年間千両に上る学費は仙台藩が支給した。学費支給に尽力したのは仙台藩江戸留守居役の大童信太夫であった。
 ちなみに大童は代々伊達家に仕えてきた家柄で、家格は大番士、藩主慶邦の近侍、評定所役人を経て江戸留守居役に任命された。西洋文明を好み、洋学書生の育成に努め、福沢諭吉、富田鐵之助、高橋是清などを支援した。戊辰戦争のあと、藩内の勤皇派から戦争責任を追及され、危うく処刑されるところであったが、福沢が藩主を説得してこれを助けた。大蔵省・内務省等を経て、宮城県内の牡鹿、黒川、宮城等の郡長を歴任、老後は伊達家の家扶となった。
 1867年(慶応3)、富田らは横浜から米国船コロラド号に乗ってサンフランシスコに入港、ここからパナマ港を経て汽車で大西洋側に出て、再び船に乗ってニューヨークに上陸した。
富田鐵之助
(日本銀行情報サービス局提供)

 コロラド号には仙台藩が派遣した高橋和吉(後の総理大臣、高橋是清)と鈴木六之助(後に一高教授を経て日銀出納局長)が下等船客として乗っていた。富田は第2代総裁、高橋は第7代総裁になった人であり、不思議な機縁といえよう。
 上等船客として乗船していた富田は高橋等に対して、食事や小遣い銭を与え、いろいろと面倒を見てやったが、高橋は小遣い銭を酒代に当てただけでなく、友人の分まで巻き上げて飲んでしまった。サンフランシスコ到着後、これを知った富田は激怒し、高橋に「日本に帰れ」といったが、仲に入る人がいて勘気を解いたという。
 富田一行はボストンで学ぶこと一年、日本では戊辰戦争が始まり、仙台藩が苦境に立たされていることを知り、富田は勝小鹿の世話を他人に頼んで、自らは高木とともに日本に帰国した。そして勝海舟に面会して帰国の理由を話すと、勝は憤然としてその不心得を諭し、「幕府や諸藩の存続はさしたることでない。大事なことは日本の興廃である。君達を留学させたのは東北の人材不足を補うためである。」として、米国に戻るよう説諭し、それに必要な旅費を支給してやった。
 こうして富田は米国に戻り、再び勉学についた。しかし、日本では明治新政府が樹立し、幕府からの留学生は身分が危うくなったが、明治政府は有為な人材を登用しようと富田など幕府からの留学生も政府からの留学生に切り替え、学費を支給することにした。



外務省に勤務


 富田は英語をマスターした後、ニュージャージー州にあった実業学校において、商業や経済に関する学問を学んだ。そこの校長がホイットニーといい、後に来日し、一橋大学の前身である商法講習所の教授になった人である。富田が二度目に渡米してから2年ほど経った1871年(明治4)、森有禮(後に文部大臣)が米国駐在公使として赴任してきたが、森は富田の人となりを認め、翌年、岩倉具視が特命全権大使として渡米してきた際、岩倉はじめ大久保利通・伊藤博文なども富田を高く評価したため、富田をニューヨーク在留領事心得として抜擢した。朝敵とされた仙台藩出身者に対し破格の扱いをしたのである。時に富田は38歳であった。
 その後、副領事に昇格し、40歳のとき一時帰国して結婚した。相手は「蘭学事始」の著者として有名な杉田玄白の曾孫に当たる杉田縫で、福沢諭吉が媒酌人を勤めた。このとき当時としては珍しい婚姻契約書を夫婦間で取り交わしている。
 1876年(明治9)、富田は日本に戻り、総領事に任じられ、清国上海領事館勤務を命じられたが、赴任しないうちに外務省少書記官となり、さらに公信局勤務となった。このように富田に対する処遇があまりにも朝礼暮改的であったため、富田は官を辞することを考えたが、森有禮の忠告により省内に留まった。
 そうこうしているうちに1878年、富田は外務一等書記官に任じられ、英国公使館勤務となった。これは英国公使に次ぐ重職であり、富田にとっては英国の経済金融事情を学ぶ又とない機会となった。



大蔵省に勤務

 富田はロンドン在勤2年数ヶ月で帰朝命令を受け、1881年(明治14)大蔵権大書記官に任じられ、書記局勤務となった。この人事は伊藤博文の推薦によるといわれる。その直前に政変があり、それまで財政金融の実権を握っていた大隈重信が内閣を去り、大隈の下で大蔵卿(大蔵大臣)を務めていた佐野常民が退任して、その後に薩摩出身の松方正義が大蔵卿に就任した。
 松方は就任と同時にインフレーション収束のため健全財政主義を貫くとともに、中央銀行としての日本銀行創立に乗り出したが、富田はその仕事に携わることになった。松方はかって各国の中央銀行制度を視察したことがあり、インフレ抑制のためには中央銀行の設立が不可欠であると考えていた。
 松方はベルギー国立銀行制度を研究させた加藤済を銀行局長につけて草案をまとめさせ、これを大蔵少輔吉原重俊(初代日銀総裁)、郷純造(後の大蔵次官)、加藤済、富田の4人とともに仔細に検討を加えた。これが後に日本銀行条例となったものであるが、草案がまとまるまでに会議は数十回に及んだ。会議は欧米事情に詳しい富田が意見をいい、松方がこれを裁断するという形で進められた。加藤は原案に対して異なる意見が出ると、顔面色をなして怒り、温厚な吉原はこれを制御できず、結果的に富田は大分苦労したらしい。



日本銀行副総裁に就任

 1882年(明治15)10月、日本銀行が設立され、総裁に吉原重俊が、副総裁に富田鐵之助が選ばれた。吉原は一生の大半を海外で過ごした人で、学才では当時右に出るものはないといわれ、人柄は温厚かつ清廉で、薩摩藩出身ではありながら藩閥意識はなく、初代総裁としてはうってつけの人であった。ただ病気欠勤勝ちであったため、日常の行務は富田副総裁が事実上統括していた。

創業当時の日銀建物(日本銀行情報サービス局提供)
 富田は雅号を鐵耕といい、清廉潔白にして剛直な人として知られていた。副総裁在任期間は5年4ヶ月に及んだが、創業期における公定歩合の制定、大阪支店設置、不換紙幣の整理、兌換銀行券の発行などの重要案件はほとんど富田の下で処理され、それだけに大変な激務で休暇をとることもできなかった。
 そうこうしている時、松方大蔵大臣から横浜正金銀行に対し巨額の低利為替資金を供給するよう要請があり、富田副総裁がこれを拒否するという事態が生じた。松方の考え方は、外国貿易振興のためには横浜正金銀行に対して低利の円資金を供給して荷為替業務を促進することが良いとのことであり、一方富田は外貨準備に関する業務を特定の銀行に一任するのは問題であり、むしろ中央銀行が自ら行うことが良いというものであった。こうした意見の対立もあり、富田はひそかに辞意を考えた。
 そうした矢先、吉原総裁が現職のまま逝去した。松方は富田を総裁に就けるつもりはなく、富田に対し次の総裁が決まるまで副総裁に留任してくれるよう要請した。富田はこれを了とし、ただし総裁が決定した後は副総裁を辞任したいと申し出た。


総裁に就任、そして辞任

 松方は内々、加藤済銀行局長を総裁にと考えていたが、加藤の健康に問題があり、やむなく富田を総裁に指名した。これに対し富田は考えあぐねて、恩師勝海舟を訪ねて総裁に就任すべきか否かについて相談したところ、勝は「断るも一時受けるも五十歩百歩、ここは受けておくべき」と諭し、富田はそれに従った。この間、総裁職は2ヶ月以上に亘って空席となった。
 総裁就任後も横浜正金銀行に対する外国為替買取りのため低利資金供給問題は解決せず、松方大蔵大臣は日本銀行の役員集会に自ら臨んで「告諭」を行い、これに対して富田総裁は「奉答卑見」と題する文書で回答するなど両者の対立は決定的なものになり、富田はついに総裁を辞任した。ここに至ったのは横浜正金銀行問題が契機ではあるが、同時に藩閥からの誹謗中傷等があったようで、富田にとっては苦汁の選択といえた。吉原総裁が存命中は藩閥からの攻撃に対して吉原が防壁になっていたが、吉原総裁逝去のあとは直接富田に攻撃が加えられたらしい。
 富田が総裁であった期間はわずか1年半に過ぎなかったが、副総裁の間も実質総裁として機能しており、その意味では日本銀行発足当初のほぼ7年間は富田が事実上統率したといえる。総裁になってからも、富田は公定歩合を弾力的に操作して金融政策を進める一方、それまでの日本銀行の「半期報告」に加えて、新たに年間の「営業報告」を行い、その中で金融情勢分析および金融政策運営の趣旨を一般に説明しており、情報開示の先鞭を付けたといえる。
 富田は総裁を辞任した当日の夜、松方に対して軸物を贈り、添えた手紙の中で公の面においては意見の相違があったが、それは国家のためを思ってしたことであり、決して私情のためではないとし、それまで仕事を一緒にしてきたことの記念に贈りたいと記した。
 これに対して松方も相模国貞宗の太刀一振を富田に贈っている。お互いに「君子の争い」と考えており、今後も「君子の交わり」を続けたいと願ってのことであった。現に2年後に松方内閣のとき、富田は東京府知事に任命されている。
 余談であるが、富由の後継者として川田小一郎が第3代総裁に任命され、その1ヶ月後に日本銀行は横浜正金銀行との間で外国為替手形再割引契約を締結し、横浜正金銀行に対し巨額の低利資金供給の道を開いた。
 川田が総裁に就任した後、その新任披露を兼ね日本銀行行員を集めて訓示をした際、この外国為替事件について論及し、「新聞紙上に大蔵省と当行との往復文書残らず掲載してあるのは当行行員が提供したに相違ない。こうした行員は厳しく懲罰すべき」と述べた。このとき荒井泰治という行員が発言し、「この内容は前総裁の意を受けて自分が書いたもの。行内で洩らすものがあるとすれば自分以外に無い。前総裁の厳正、篤行を知る行員は身の信用を重んじ、秘密を守ることに厳であり、日本銀行から洩れることは決してない。よく調べて今の発言を撤回して欲しい」と述べた。
 これを聞いた川田総裁は激怒し、弁解聞く要なしとして、決然として席を立った。その行員は仙台藩士の子で、中江兆民の塾でフランス語を学び、大阪新報社編集長をしていたが、同じ仙台藩出身の富田に認められて日本銀行に入り、ベルギー国立銀行制度研究のため外遊する手はずになっていた。
 川田総裁は一旦怒ったものの調べてみると、新聞記事は大蔵省側から提供されたものであることが分かり、早速荒井行員を呼び、慰撫して「君の筆と弁に期待したい。自分の子分にならないか」と誘った。川田は歴代総裁の中でもっとも大物といわれた人で、封建的気風を持っており、それが子分云々の発言になったものである。
 荒井は川田の申し出に心を動かされたが、男子は容易に豹変すべきでないと考え、「他日お世話になることもあろうかと思うが、一旦は日銀を辞めさせて欲しい」と述べた。荒井は富田前総裁の推薦によって鐘紡支配人になり、のち台湾において財を成し、晩年宮城県の多額納税貴族院議員に当選している。


東京府知事になる

 富田は日銀総裁を辞任したあと、地元の人々に推されて東京市会議員および麻布区会議員になり、次いで1890年(明治23)に帝国議会が開設された際、貴族院議員に勅撰された。このとき貴族院議員に選ばれたのは約60名であったが、大部分は官庁出身者であり、民間からはわずか9名だけであった。
 ちなみに主な人を挙げると、渋沢栄一、岩崎弥之助、川田小一郎、森岡昌純(日本郵船社長)などであり、こうした人達に混じって富田が選ばれたのである。時の内閣総理大臣は山縣有朋であった。貴族院議員は終身であり、富田はこのあと逝去するまでの25年余これを勤めた。
 翌年、東京府知事に任命された。富田を登用したのは、この年に組閣した松方正義であるが、総裁辞任当時の世論が富田に同情的であったので、松方もこれを放置できなかったらしい。
 東京府知事としての最大の治績は、南北西の三つの多摩郡を東京府に編入したことである。今の三鷹・小金井・立川・国分寺・八王子・調布などはすべで多摩郡に属しており、その大部分が東京府民の水道の源の玉川上水、多摩川に関係していたが、三多摩地方は神奈川県に属していたため、衛生上問題があっても解決できないでいた。そこで富田知事は反対派の暴行を受けながらも、断固これを実現した。当時、三多摩郡は自由党の勢力下にあり、これが東京府に編入されると神奈川県政に大きな影響が及ぶため、政治的には一大難事業であった。富田知事の在任期間は2年3ヶ月と短期間であったが、その功績は決して小さくなかったといえる。


郷里のために尽くす

 東京府知事を退任したあとは、民間にあって各種会社の創立や運営に関与したが、富田が最高責任者として仕事をしたのは富士紡績株式会社と横浜火災保険株式会社の2社であった。富士紡績の設立は1896年(明治29)で富田は初代会長となった。定款上社長は設けられていなかったので実質社長である。横浜火災も同年設立され、社長に就任している。
 このほか取締役として経営に深く関与したのに日本鉄道株式会社がある。これは上野・青森間の鉄道を運営した会社で、1881年(明治14)に創設、10年後に全線開通となったが、富田が理事委員(のち取締役に改称)になったのは1898年のことで、この頃経営が行き詰まり、渋沢栄一とともにその事態収拾にあたった。
株式会社改組後の七十七銀行本店

 七十七銀行が1898年(明治31)に国立銀行としての営業満期を迎え、解散か私立銀行として再出発するかの岐路に立たされたとき、これを指導したのも富田であった。当時七十七銀行は不良債権等を抱えて厳しい状況にあり、日銀総裁経験者であった富田に來仙を乞い、行務の整理と営業満期後の処置について意見を求めたのであった。
 富田は一部の役員と相談するとともに、地元有力者と協議して最終的に私立銀行として営業を継続することに決定した。その後に開催された臨時株主総会においては、富田の判断を了とするとともに、富田に対して営業継続後の七十七銀行の監督ならびに役員の選定をも依頼する動議を可決した。
 この要請に応えて、富田は株式会社改組後の七十七銀行取締役として和達孚嘉、遠藤敬止、小倉長太郎、伊澤平蔵、大野清敬の5名を、監査役として早川智寛、八木久兵衛、藤梼O郎助の3名を指名し、株主総会の承認を得た。そして和達孚嘉を専務取締役として実質頭取の地位に就けた。このように富田は七十七銀行の株式会社への改組、その手続き、役員選定までの一切を任され、その期待に見事応えたのであった。
 また富田は廃藩置県後の伊達家に対しても支援を惜しまなかった。伊達家は宮内庁の指導により家政協議会を作ったが、協議員の一人に富田を選んだ。これには斉藤実、高橋是清、後藤新平、菅原通敬、志賀潔などの名士が名を連ねていたが、富田ほど広範な経験と該博な識見を有する人はなく、伊達家の運営に対して極めて適切な助言と協力を与えた。
 富田は郷里の青年たちの育成にも心を砕き、学生たちに学資を貸与する「造士義会」を設立した。また新島襄とともに東華学校(当初は宮城英学校)の創設にも貢献した。二人はともに同時期に米国に留学しており、その縁もあって新島が同志社大学を設立した際、富田はこれを支援しているが、さらに新島が仙台に男子中等普通教育のための英学校を創設したいと相談したときも親身になってこれに協力した。「宮城英学校」がそれで、初代校長には新島自身が就任し、翌年「東華学校」と改称された。
 当時、押川方義が東北学院設立の準備を進めていたが、宮城英学校ができたことで、東北学院の設立が遅れたという経緯もある。それはともかくとして、 キリスト教にもとづく英学校として開学し、新島と親しい米人宣教師が聖書講義などを行っていたため、新島が亡くなったあと、欧化主義に対する反動もあって、わずか5年余で閉校となった。しかし、この学園からは一力健治郎、真山青果、児玉花外(文人)、山梨勝之進(海軍大将)などが輩出しており、富田の功績は大きかったといえる。なお、東華学校はその後いろいろの過程を経て現在は県立第二女子高になっているが、両者の間には直接のつながりは無い。


商法講習所の創設

 一橋大学の前身、商法講習所の創設にも富田は深くかかわっている。前述のように富田は米国に留学中、ニュージャージー州の実業学校で商業に関する学問を学んだが、その重要性を知り、上司の森有禮に話して、校長のホイットニーを日本に招聘して商業教育のための学校を創設してはと提言した。
 森はホイットニーに対して非公式に来日の内諾を得て、帰朝後要路に学校創設の必要性を述べて回ったが、一顧もされず、ホイットニーが来朝したときには、とりあえず私塾として開設したのが商法講習所であった。このときホイットニー一家の面倒を見たのは富田夫人であった。富田は日本で結婚式を挙げた後、夫人を日本に残しており、その家にホイットニー一家を同居させたのであった。
 まもなくして森は中国駐在特命全権公使に任命されたため、講習所の事務を東京会議所(東京商工会議所の前身)に委託した。その後、商法講習所は東京府所轄となり、さらに農商務省、文部省直轄とかわり、名称も東京高等商業学校、東京商科大学等と改められて、戦後一橋大学となった。
 富田は農商務省所管の東京商業学校時代に、渋沢栄一、益田孝とともにその商議員になり、東京高等商業学校になってからも商議員を続け、通算約10年間その職にあった。富田の一橋大学史における役割は小さくなかったといえる。
 1916年(大正5)2月27日、富田は東京府小石川大門町の自宅で家人が見守るうちに逝去した。前月房州一宮の別荘に遊び、帰京後感冒に罹り、発熱激しく、心臓が冒されたもので、享年82歳。遺骸は護国寺の墓地に葬られた。富田本家の墓地は仙台市の真福寺にあり、ここには遺髪が収められている。
 この年の5月に仙台市の北山輪王寺において、和達孚嘉、早川智寛らが発起人となって追悼会が催され、政官財界の主な人が集まって別れを惜しんだ。


 (本稿は吉野俊彦著「忘れられた元日銀総裁」を資料としており、吉野氏に対し厚く御礼申し上げたい。)

  (著者の宮城建人は勝股康行のペンネーム)

護国寺の墓地 真福寺の碑




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