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七十七ビジネス情報第29号

シリーズ 先人に学ぶ

「楽都」仙台の系譜

 「仙台フィルハーモニー管弦楽団」の前身「宮城フィルハーモニー管弦楽団」は1973年、地方音楽人の手により結成され、その後今の名称に変更、現在、年間公演回数は110回を超えている。「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」、「仙台国際音楽コンクール」の成功は同フィルの力によるところが大きい。一方、街角の音楽「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」、「みちのくYOSAKOIまつり」は日本的規模に拡大、いまや仙台は楽都としての地位を確固たるものにしている。



宮城 建人
「宮城フィルハーモニー管弦楽団」の発足

 かつて仙台にはアマチュアの「仙台市民交響楽団」があったが、ほとんど活動していなかった。そうしたなかで当地出身の作曲家、片岡良和氏が「大都市にはオーケストラが必要」と考え、1973年(昭和48)に地元音楽人とともに作ったのが「宮城フィルハーモニー管弦楽団」(以下「宮城フィル」と略)であった。

 片岡氏は見瑞寺(榴ヶ岡)の住職で、国立音楽大学卒業後、作曲家になり、美しいメロディーを作ることで定評があった。東京から仙台に戻って仕事をしていたが、ある時バレエ団の創作発表会をオーケストラで演奏したいと考え、メンバーを募ったところ30人ほどが集まり、これを土台に「宮城フィル」を設立した。プロも何人かいたが、ほとんどがアマチュアであった。

 片岡氏が常任指揮者になり、74年に第一回定期演奏会を開催した。翌年協会を設立して藤ア三郎助氏が会長に就任した。山形交響楽団からも団員が移り、78年には社団法人化してプロオーケストラとして出発した。オーディションを開始し、演奏者の組合「ユニオン」にも加盟、待遇も良くなると、新たに音楽学校卒業生なども加わり、楽団としての体裁は次第に整ってきた。

 しかし経営的には容易でなく、その頃は楽器も不足していたのでNHK仙台放送局から借り、楽器の調律や運搬も団員自ら行い、そうした中で年間40回ないし50回も演奏していた。それでも資金繰りに困り、三塚博文部政務次官に相談すると、一地方に一団体、55人以上いれば文化庁の助成金が得られると聞いて山形交響楽団と提携して連盟をつくり、国の助成金を貰ったこともあった。

 83年からは、芥川也寸志氏が音楽総監督になり、常任指揮者に籾山和明氏、首席客演指揮者に小林研一郎氏というトロイカ体制がとられ、楽団はようやく軌道に乗ってきた。芥川氏は片岡氏と同じく作曲家で、片岡氏の要請を受けて「年1回程度なら振ってもいい」として引き受けたもので、ただし常任指揮者は他の人を選ぶことが条件で、上記のような体制になった。



「仙台フィルハーモニー管弦楽団」に改名

 

宮城フィルハーモニー管弦楽団
〔仙台市制施行88周年記念演奏会(1977年)〕
(財団法人仙台フィルハーモニー管弦楽団提供)
  芥川氏は「宮城フィル」のためにいろいろと貢献されたが、89年1月に逝去した。生前オーケストラの名前は都市名にすべきとして「仙台フィル」の名称を提唱していたが、奇しくもこの年に仙台市は政令指定都市になり、それを機に「宮城フィル」は「仙台フィルハーモニー管弦楽団」(以下「仙台フィル」と略)と名を改めることになった。新たに外山雄三氏が音楽監督に就任し、円光寺雅彦氏が常任指揮者に、籾山和明氏が客演指揮者に就くことになった。

 この年に念願の東京公演も実現したが、これも芥川氏が主張していたことで、結果的に芥川氏の追悼公演になった。1曲目に芥川作曲の「トリプティク」を円光寺指揮者が涙を流しながらタクトを振ったという。この公演のライブ版が仙台フィルの最初のCDとなった。  

 90年(平成2年)に青年文化センターが開館し、ここが仙台フィルの本拠地となった。その結果、定期演奏会は従来の1日公演から2日間公演となり、練習もここで出来るようになった。それまではビルの地下や学校の体育館で練習するという状況で、やっと管弦楽団らしくなった。なお、この年に「仙台フィル合唱団」と「仙台ジュニアオーケストラ」が生まれている。

 92年には、「財団法人仙台フィルハーモニー管弦楽団」が「社団法人宮城フィルハーモニー協会」から分離独立して設立された。その狙いは仙台市から財政的な支援を受けるに当たって、多額の負債を抱えている社団法人では、あたかも借入金返済に充当するような形になり好ましくないというもので、新たに設立した財団が仙台市から応分の資金支援を受けることになった。そして社団法人の方は年数回の演奏会収入や企業からの資金支援(賛助会費)などによって債務の返済に当ることとなった。この間、定期演奏会は財団法人化を機に年9回、18日公演となった。

 藤ア三郎助氏は既存の協会長を兼務したまま新しい財団の理事長にも就き、両方の面倒を見ることになった。同氏は団員のボーナスをポケットマネーで出したり、借り入れの保証人になったりで、同氏の支援なしには今日の仙台フィルはなかったといわれる。その藤ア氏は94年に急逝され、翌95年東北電力会長の明間輝行氏が理事長に就任された。

 この間、94年2月には定期演奏会が通算100回を数えるとともに、企業・地方自治体主催のコンサートや地方公演、年末恒例の「第九」特別演奏会などを数多くこなし、楽団の基盤を強めていった。

 そうした中で、95年には「第2回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」が仙台で開催されることになり(後述)、「仙台フィル」はホストオーケストラを務めることになった。

 さらに99年には慶長遣欧使節団に題材をとった三善晃作曲オペラ「遠い帆」が、外山雄三音楽監督指揮のもと仙台市青年文化センターと東京の世田谷パブリックシアターにおいて公演され、高い評価を受けた。これは翌年、再度仙台と東京で公演され、「仙台フィル」の確かな財産となった。

 次いで2000年には念願のヨーロッパ公演が実現した。2週間に亘ってオーストリアのリート・リンツ・ウィーン・フィラハ各市とローマ市の5都市を回って公演し、現地の聴衆と評論家から高い評価を得た。

 このようにして「仙台フィル」は着実に地歩を固めていった。そうした中で01年には社団法人を解散して財団法人一本の体制に改めた。これは社団法人が持つ赤字額が減少してきたことに加えて、資金支援を行って来た企業側から二本立ては好ましくないとの指摘がなされたためであるが、ここに至って「仙台フィル」はようやく正常な姿になった。

 「仙台フィル」は現在、楽団員83名体制(実団員数77名)、いわゆる14型(第一ヴァイオリン14人、第二10人、ビオラ8人)の不完全三管編成であるが、年間公演回数は約110回(うち定期公演9回18日間)、事業規模9億円と地方オーケストラ(注)としてはほぼ中位の位置にある。

 現在、「仙台フィル」を支援しようとして東北電力が「名曲の夕べ」等の演奏会を東北7県で実施しているほか、アイリスオーヤマが「アイリスウィーク」、藤崎が「藤崎ニューイヤーコンサート」、七十七銀行が「ふれあいコンサート」等を開催しており、こうした地元企業の主催コンサートが楽団を支えているといえる。

(注)日本にはオーケストラ連盟に加盟しているプロのオーケストラが23楽団あり、このうち東京に8、その他地方に15ある。

「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」
 前述のように「第2回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」が95年に仙台で開催されたが、この計画を仙台市に持ち込んだのはNHKであった。親コンクールに当たる「チャイコフスキー国際コンクール」は世界三大コンクールに数えられ、ソ連が冷戦の最中に国の威信を示すために58年から開催されているものであるが、これを母体として、若い音楽家を育てようとして始められたのが「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」であった。第1回目のコンクールは92年にモスクワで開催され、その2回目を仙台で行ってはどうかということであった。
第2回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール
(財団法人仙台市市民文化事業団提供)
 これを主催していたのはチャイコフスキーコンクール入賞者連盟(ATCS)で、コンクールはピアノ、ヴァイオリン、チェロの3部門から成り、16歳以下を対象としていた。そして、このコンクールに入賞すると「チャイコフスキー国際コンクール」の予備審査なしに参加できるという大きな特典があった。

 若い音楽家を育てるという考え方は藤井仙台市長のかねての意向に沿うものであった。藤井市長は「仙台は、古くは島崎藤村が仙台から巣立っていったように若い才能を育てる揺籃の地」と考えており、若い人を育てることに熱心であった。そうしたこともあって仙台市はこの申し入れに応ずることになった。その後、組織委員会を立ち上げ、準備を重ねた上、95年8月25日から翌月10日までの17日間、仙台国際センターおよび青年文化センターにおいてコンクールが行われた。

 審査委員長にはレフ・ヴラセンコ(ロシア)が、審査委員には過去の「チャイコフスキー国際コンクール」入賞者ら著名な音楽家・評論家が選ばれ、28の国と地域から173名が参加して盛大に行われた。3部門を通じてファイナリストは18名、うち入賞者は10名となった。

 ちなみに第1位には、ピアノ部門でランラン(中国)、ヴァイオリン部門でピョートル・クァズニー(ポーランド)、チェロ部門でモニカ・レスコヴァル(クロアチア)が選ばれたが、日本人も健闘し、ピアノ部門では2位に上原彩子が、ヴァイオリン部門では2位に松山冴花が選ばれた。上原は後に「第12回チャイコフスキー国際コンクール」ピアノ部門で日本人として初、そして女性としても初めての第1位を獲得、松山も「第2回仙台国際音楽コンクール」において第1位に入賞している。

 当初の計画では、4年後の99年に第3回コンクールを仙台で開催する予定であったが、「チャイコフスキー・コンクール入賞者連盟」との折衝を通じて本コンクールの内容が変質していることが判明、特に入賞者がチャイコフスキー国際コンクールに出場できる保証がなくなり、運営方法についても合意が得られず、やむなく開催を見送ることになった。
 

「仙台国際音楽コンクール」の開催

 仙台市は「若い音楽家の育成」というテーマを引継ぎ、新たに国際音楽コンクールの開催を計画、これを開府四百年記念事業として取り上げることにした。藤井市長は市議会において「前回を凌ぐ世界レベルの国際音楽コンクールにする」と約束し、これを受けて作り上げられたのが「仙台国際音楽コンクール」であった。

 このコンクールの特徴は、第1にコンチェルト(協奏曲)を中心に演奏が競われたことである。こうした例は比較的小さなコンクールでは見受けられるが、大きなコンクールでは例がなく、通常はソロで演奏を競い、ファイナルになってご褒美のような形でコンチェルトが演奏されるのが一般的で、前回の「若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」もそうした方式であった。

 それを今回は、予選においてコンテスタント(出場者)は弦楽四重奏と共演し、セミファイナルからは「仙台フィル」との共演で演奏を行う方式とした。これはオーケストラに大変負担がかかることになるが、「仙台フィル」の外山音楽監督の提言もあり、こうしたコンクールのあり方が実現した。出場者にとってはオーケストラと共演するのは夢のようなものであり、世界的には無名に等しい新規参入のコンクールにとっては、「仙台フィル」の存在はまたとない援軍となった。

 第2の特徴はオーディションを世界主要都市の有名音楽院などで行ったことである。ニューヨーク、パリ、上海、仙台の4箇所を選び(第2回目ではウィーンを追加)、これによって欧米のコンテスタントはコンクールに応募しやすくなった。オーディションは任意の協奏曲をピアノ伴奏で行うが、コンテスタントは自分にあった伴奏者を同伴できるので好都合であった。

 第3の特徴は審査員の構成について国際音楽コンクール世界連盟(W.F.I.M.C)の国際基準に基づいて選定したことである。国際コンクールの審査員はいろいろの国から選ぶことになっており、またオーディションの際は現地の審査員を必ず加えることになっているが、そうした条件をクリアした。その上で審査員には世界的に一線級の演奏家を選んだ。審査員の報酬は演奏料に比して安く、時間の拘束も長いので交渉は難航したが、前回の経験もあり良い人を確保することが出来た。国際的に知られた審査員の名前を要綱に載せることはコンクールにとって何よりのPRとなった。

 「第1回仙台国際音楽コンクール」の概要は@ヴァイオリン、ピアノの2部門で行う、A出場資格は25歳以下、Bオーディションは前記4会場で行い、予選・セミファイナル・ファイナルは仙台で実施、C賞金は1位300万円、2位200万円、3位100万円(以下略)、D1位入賞者は仙台フィルハーモニー管弦楽団等と通算3回以上の共演の機会を与えられる、といった内容である。

 審査委員はヴァイオリン部門が宗倫匡委員長ほか10名(うち日本人1)、ピアノ部門が野島稔委員長ほか10名(うち日本人2)と決まった。
 本コンクールに対する申込みは両部門合わせて39の国と地域から300名あり、オーディション通過85名、セミファイナル30名、ファイナル12名となった。

 第1回コンクールは01年5月12日から6月9日までの約1か月間、世界19の国と地域から74名の出場者を迎え、約1万人の聴衆を得て、青年文化センターにおいて実施された。それは「仙台開府四百年記念事業」にふさわしい充実した内容で、楽都仙台に新たな1ページを加えることになった。

 第1位入賞者はヴァイオリン部門でホァン・モンラ(中国)とスヴェトゥリン・ルセヴ(ブルガリア)の二人、ピアノ部門ではジュゼッペ・アンダローロ(イタリア)が選ばれた。日本人の上位入賞はなかったが、ヴァイオリン部門の4−6位はすべて日本人が占めた。

 このコンクールが成功した影の功労者として、総勢300人以上に及ぶボランティアの活動が挙げられる。ボランティア委員会が組織され、ホスピタリティあふれる活動がなされ、関係者から感謝された。
松山冴花
(財団法人仙台市市民文化事業団提供)


 「第2回仙台国際音楽コンクール」は04年5月15日から6月19日にかけて実施された。今回は両部門併せて31の国と地域から310名の申し込みがあり、オーディション通過80名、セミファイナル24名、ファイナル12名となった。今回はウィーンでもオーディションが行なわれ、参加基準も前回の25歳以下から27歳以下に改められたため、前回以上に多くの才能が集まり、結果的にレベルの高いコンクールになった。

 そうした中で第1位入賞者にはヴァイオリン部門で松山冴花(日本)が入り、ピアノ部門でも第2位に高田匡隆(日本)が入るなど日本勢の健闘が目立った。松山は「第2回若い音楽家のためのチャイコフスキー国際コンクール」において2位の実績を有しており、このコンクールの存在が彼女の成長に大きく貢献したことは間違いない。

 コンクール終了後、04年11月に藤井市長はジュネーブにある国際コンクール世界連盟を訪問して、同連盟への加盟を申請した。この連盟に加盟するためにはコンクールを2回以上開催する必要があり、それがクリアできたので申請したものであるが、世界連盟事務局長からは良い感触を得たという。現在、世界連盟に加盟している国内コンクールは5つあるが、2部門に亘るコンクールは無く、これが認められればアジア最大のコンクールになる。

 こうした国際音楽コンクールでの共演を通じて「仙台フィル」は一層磨きをかけ、05年3月4日定期演奏会は200回目を迎えた。この日は稀な大雪の中を大勢のファンが参加し、はじめに北方寛丈・菅原拓馬両氏が共同で作曲した「コラーゲンU」を、外山雄三・梅田俊明両指揮者が二人で指揮するという、珍しい形式で演奏が披露された。次いでR.シュトラウスの交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」と「アルプス交響曲」を両指揮者がそれぞれタクトを振るい、聴衆に深い感銘を与えた。


街角の音楽

 仙台には、こうした「国際音楽コンクール」がある一方、1日に出演するバンド数では世界一といわれる「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」があり、またYOSAKOI三大祭の一つ「みちのくYOSAKOI祭り」もある。国際コンクールが“音楽芸術家の音楽”とすれば、これらは庶民の手による“街角の音楽愛好家の音楽”といえよう。
定禅寺ストリートジャズフェスティバル
(同実行委員会提供)


 「定禅寺ストリートジャズフェスティバル」(以下JSFと略)は91年9月に発足した。きっかけは地下鉄開業と141ビルの開業であった。JSF発足の4年前のことで、ここに勾当台公園駅ができることになり、そこで定禅寺通り界隈商店の青年達が中心となり、「冬のまつり」を創設したいとの仙台市の資金支援を受けて「光のページェント」を実施した。

 次いで141ビルの販売促進イベントとして「定禅寺通りジャズフェスティバル」を開催した。この時はジャズ・グループが3グループほど出演し、これが4年間続けられたが、さらに室内でなく屋外でやってはどうかとなり、そうして生まれたのがJSFであった。提案者はピアニストで作曲家の榊原光裕氏である。

 発足当初のパンフレットには「仙台市の誇る美しいストリート、定禅寺通りを席巻する音楽祭を企画いたしました。世界に誇る美しい緑の下で、多くの市民の皆さんと仙台のジャズ・ミュージシャンがポピュラーな名曲の数々を通してふれあい、互いに音楽の楽しさ・素晴らしさを感じあおうという趣旨の音楽祭です」と記してある。

 91年9月15日に第1回目が開催されたが、これに参加したバンドは25、参加者150名、ステージ数は9に過ぎなかった。それ以来、毎年9月に開催され、昨年(04年)14回目を迎えた。バンド数は年々増加し、昨年はバンド数666、演奏者数3800名、ステージ数88箇所、観客数56万人に達した。開催日も2000年以降2日間になっている。

 ジャズとはいってもジャズにこだわっていない。現にジャズ以外の音楽がはるかに多い。実行委員会が出している文書にも「ステージは街」「ジャンルとしてのジャズにはこだわりません」「みんなで作っています」「世界最大級の音楽祭」と記してある。

 ステージの主な場所は定禅寺通りのほか、市民広場、勾当台公園、仙台駅、青葉通り、東一番町通り、西公園など市内各地に亘っている。

 運営はJSF実行委員会が行い、定禅寺街づくり協議会が共催、仙台市ほか一部企業が特別協賛として名を連ねている。民放のほかNHKもこれを生中継しており、今ではこの街の一大イベントになっている。

 一方、「みちのくYOSAKOI祭り」は98年10月に始まり、昨年7回目を迎えた。もともとは札幌の学生が始めたものであり、その後各地に広がり、宮城県においても地元の学生が「仙台にYOSAKOIを立ち上げよう」と呼びかけたのがきっかけである。その意味ではオリジナルではないが、97年の「動く七夕」において高知のYOSAKOIチームがこれを披露、次いで光のページェントにおいて、新たに公募で集まった踊り手によって「よさこい踊り」が行なわれた。
みちのくYOSAKOIまつり(同実行委員会提供)

 
 そうした経緯を経て仙台の若者たちが「東北共通の祭りをつくり、東北を盛り上げよう」としてはじめたのが「みちのくYOSAKOI祭り」であった。98年10月31日に前夜祭、翌11月1日に本祭が開催された。このときの参加チームは34、参加人数1200名、4会場で行われたが、観客動員数は10万人と当初から盛況であった。その後、年々拡大し、昨年は全国から220チームが参加し、参加人数は7500名、市内11箇所で開催され、観客動員数は80万人以上に上った。祭りの手法は高知の「よさこい祭り」にのっとり、「鳴子を持って踊ること、地元の民謡の一節を入れること、礼儀を重んじること」となっている。

 このようにJSFもYOSAKOIも市民の手によって生まれ、大きく成長したもので、仙台にはそうした音楽の土壌があるといえる。

 音楽を「街づくり」に役立てているのが仙台卸商センターの試みである。同センターは卸町の卸機能の低下にかんがみ、新しい街づくりを計画し、2年前に「せんだい演劇工房10−BOX」を設置したが、04年8月にスタジオ「音楽工房MOX」を設置した。卸町会館の地下を改装して4つの練習用スタジオを作り、音楽愛好者に練習の場を提供している。最新の防音システムを採用し、各種機材を取り揃えて多様な音楽ジャンルに対応できるようになっているが、これを指導したのは東北大学大学院工学研究科の阿部仁史教授で、一種の産学連携である。これによってビジネス街を「人が集い、楽しみ、生活する街」に変えようというのである。

 一方、小・中・高を通じて学校での合唱活動も盛んで、古くはNHK全国学校音楽コンクールにおいて、市内の小・中学校が連続優勝を遂げた記録もあり、最近も高校を含めて上位入賞を果たしている。このほか仙台少年少女合唱隊が「杜の都・市民金メダル」を、また仙台童謡愛好会が「第23回赤い靴児童文化大賞」を受賞するなど、いまや仙台は「楽都」の名に恥じない街ぐるみの音楽都市に変わろうとしている。

  (著者の宮城建人は勝股康行のペンネーム)

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