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七十七ビジネス情報第28号

シリーズ 先人に学ぶ

仙台空港70年の歩み

 仙台空港の前身は陸軍飛行学校の訓練基地、昭和32年に民間航空の基地になり、平成2年には国際化されて順調な発展を遂げ、内外便旅客数は11年に330万人余に達した。しかし、その後は頭打ちとなり、15年には国際的テロとSARSの影響で一部国際線が休止するなど厳しい情勢に直面した。幸い、16年に台北線が就航し、先行きバンコク線の運航も見込まれるなど、このところ明るさが見られるが、決して楽観はできない。ついては仙台空港の歩みを振り返り、新たな発展の手がかりを見出したい。



宮城 建人
仙台空港の生い立ち

 仙台空港の前身は陸軍飛行学校の練習基地であった。当初は仙台市郊外の霞目に昭和8年につくられ、陸軍の飛行訓練が行われたが、日中戦争開始により飛行部隊が拡大したため手狭になり、新たに矢野目と名取市下増田にまたがる松林・農地を手当てして、昭和15年(1940)に学生を動員してつくったのが名取飛行場であった。正式には「熊谷陸軍飛行学校増田分教場」といったが、当時の滑走路は舗装されておらず、今とは全く違う飛行場であった。

 終戦後、米軍に接収され、米軍の落下傘部隊が進駐して降下訓練に使用されたが、昭和31年(1956)に返還され、翌年航空自衛隊第2操縦学校第2分校として再発足した。これを機に仙台市はここを空の玄関にしようと計画を立て、これに日本ヘリコプター輸送株式会社(以下、日ペリ航空)が応じて昭和32年に民間航空寄港地として発足した。滑走路は1.2千メートルに延長され、1日1回仙台・東京間を定期便が運航した。

 なお、飛行場の管理は防衛庁と運輸省の共同となったが、その後、航空自衛隊が他に移転したため、名取飛行場は運輸省のみの所管となった。





仙台空港ビル鰍フ設立

 昭和32年に日ペリ航空は極東航空と合併して全日本空輸株式会社(以下、全日空)となり、翌33年に札幌便を運航、続いて34年に三沢便、函館便と拡大した。39年に「空港整備法」に基づき第2種空港となり、仙台空港と改称された。名実ともに東北における空の玄関となり、43年には旅客数は10万人をこえた。

 42年の「第一次空港整備5ヵ年計画」において、仙台空港の2千メートル滑走路新設によりジェット化することが決定したため、宮城県および地元経済界が中心となって、本格的なターミナルビルを建設することになった。建設準備委員会が設けられ、45年に「仙台空港ビル株式会社」が設立された。
昭和46年当時の仙台空港(仙台空港ビル株式会社提供)

 初代社長には堀豁東日本興業且ミ長が選ばれ、直ちにターミナルビルの建設に着手した。翌年白亜のターミナルビルが完成したが、堀社長の意向で「経営見通しが困難な状況下、建設事業費は借入れをしない範囲内にとどめるべし」としたため、冷房設備はなく、翌年の夏は猛暑で悩まされたという。

 47年に2千メートル滑走路ができ、大型ジェット機が東京および札幌との間を就航するようになった。51年には大阪便が運航、52年からは東亜国内航空も乗り入れて名古屋便を運航、翌年には福岡便も就航し、旅客数は53年に100万人に達した。その後も定期路線先は次々に増え、54年に新潟、55年に沖縄と拡大し、55年の旅客数は140万人をこえるにいたった。








国際化への長い道

 昭和53年(1978)に、航空政策研究会(会長 木村秀政日本大学名誉教授)が「長期空港政策への提言−転換期に立つ日本の空港整備」を発表した。その中で「将来、日本から海外に渡航する旅行者が激増することを考えると、いつまでも東京・大阪空港に依存する2眼レフ体制をとるべきではない。地方空港を国際空港化して将来の国際化時代に備えるべきである」と提言した。そして札幌・仙台・新潟・小松・名古屋・福岡・長崎・熊本・鹿児島・那覇の10空港を国際空港化すべきと述べた。

 これを受けて、仙台を除く9空港は直ちに空港施設の増強を進める一方、国際路線の新設に努力したが、仙台空港のみは動きが遅かった。宮城県は古くは支倉常長のローマ行きという壮挙はあったものの、西日本や日本海沿岸地域のような大陸との交流がなく、海外にあまり目が向いていなかったのである。

 昭和57年になり、山本壮一郎宮城県知事を会長とする「仙台空港整備促進協議会」がつくられた。これはそれまで仙台商工会議所内にあった仙台空港整備促進委員会(昭和35年設立)を改組したものであるが、具体的な行動を起こすまでは至らなかった。

 こうした中で昭和59年に、仙台において二つの国際会議が開催された。一つは民間ユネスコ世界大会であり、いま一つは国際ウイルス医学会で、いずれも仙台では初めての大型国際会議であった。当時の東北新幹線は大宮始発のため、成田空港から大宮駅を経て仙台に来るというアクセスの悪さに加えて、会議場は狭く、ホテルも整備されておらず、厳しい条件下ではあったが、市民挙げての協力によって成功裡に終了した。これに自信を得て、この年の秋にコンベンション産業の構築を目指して、県・市・経済界が約20名のミッションを組み、藤ア三郎助氏を団長として米国および欧州の主要都市を視察した。そこで見たものは@大規模な見本市と観光施設、A産学連携のテクノポリス、B国内・国際航空網の充実であった。帰路の飛行機のなかで、期せずして仙台空港の国際化について皆で誓い合ったという。

 その翌60年に経済同友会の東北ブロック会議が開催されたときも、これが話題になり、山形・岩手・福島各経済同友会から「仙台に国際空港をつくり、東北と海外を直接結び付けて交流を図るべきである。何年も前から仙台に要望しているが実現していない。東北の中心県として怠慢ではないか」と強く指摘された。

 これを受けて仙台経済同友会は翌61年、「仙台空港国際空港化推進特別委員会」を設置して国際化の必要性を訴えるとともに、宮城県・仙台市・仙台商工会議所・東北経済連合会などに働きかけて、運輸省に対し第5次空港整備5ヵ年計画に仙台空港の滑走路2.5千メートル延長を加えてもらうよう要望することになった。

 第5次空整はこの年に始まったばかりであり、運輸省の壁は厚かったが、幸い、三塚代議士の努力などもあってこれが認められた。そうして2.5千メートル滑走路の建設が決まり、平成4年に供用開始となった。その完成をまたずに国際定期便の運航ができないものかとなり、近くのソウルであれば、2千メートル滑走路の下でも可能ではないかとなった。

 折りしも昭和62年に東北経済連合会の玉川敏雄会長が団長となって総勢140名の訪韓経済交流ミッションが組まれ、仙台空港発のチャーター便で韓国に出かけた。当時の仙台空港の施設は大変貧弱で、臨時のCIQ検査のため荷物をもって空港内をうろうろ歩き回るという一幕もあった。玉川会長は帰国後、「仙台空港国際化の手始めはソウルが適当であり、早急に仙台空港を整備すべし」と主張し、その推進母体として官民合同の「仙台・ソウル定期便開設促進連絡会」を設置した。

 仙台商工会議所も「仙台空港の国際空港化に関する提言」を行い、国際線の第一歩はソウル便がよく、それに向かって国および航空会社に対し働きかけるべきと提言した。

昭和63年当時の仙台空港(仙台空港ビル株式会社提供)
 翌63年には「仙台空港整備促進協議会」が再び民間主導に切り替えられ、会長に藤ア三郎助仙台経済同友会代表幹事が選ばれて、仙台商工会議所内に事務局がおかれた。その後、「仙台空港国際化促進協議会」と改称され、構成も県内主要団体約150団体となって、全県をあげて仙台空港の国際化推進に乗り出すことになった。

 平成元年にかけて宮城県知事、仙台市長などが団長となって訪韓ミッションが組まれ、韓国の主だった関係先に対し陳情を行った。当時の韓国では日本の東北はあまり知られておらず、仙台を紹介するのに苦労したという。

 ちなみに松島や東北大学くらいは多少知られていたが、それ以外はほとんどなじみがなく、陳情の際には、韓国内にある高さ千数百メートルの太白山と同じ名前の山が仙台にあるとか、また韓国の愛国志士、安重根の記念碑が若柳町の大林寺にあることなどを説明してPRに努めたという。

 最大の問題は仙台空港から韓国に行く旅行客が果たしているかということであった。そこで運輸省の協力を得てプログラム・チャーター便と呼ばれる定期便にやや近い形の便を計画したところ好評で、何よりも成田経由に比べて1日半の時間節約(往復)となり、旅行費用も安くなることが評価されて利用率は高く、関係者を安堵させた。

 こうした努力が実り、平成元年(1989)には日韓航空協議が東京で開催され、仙台―ソウル・釜山間の定期便開設が決定した。韓国第2の航空会社アシアナ航空が運航することになり、翌年から週3便で就航することになった。こうして仙台空港は晴れて日本で13番目の国際空港になった。





国際化の拡大

国際線開設当初(仙台空港ビル株式会社提供)
 仙台空港国際化促進協議会は新たな国際定期路線の開設に向けて、平成2年(1990)に本間宮城県知事を団長としてグアム・サイパンに対して定期便開設促進ミッションをおくった。両島はもともと経済的に日本人観光客に大きく依存していたこともあり、直ちに定期便就航が決定し、同年からコンチネンタル・ミクロネシア航空が週2便、グアム・仙台間を運航することになった。

 さらにシンガポールも札幌または仙台のいずれかに定期便を飛ばす意向があるとの連絡を受けて同年、川崎副知事を団長とするミッションが組まれてシンガポールを訪問、関係先との交渉にあたった。その際、シンガポール航空側からは(1)宮城県だけでなく山形・岩手・福島など隣県からも旅客を誘致すること(2)滑走路の延長、ターミナルなどの設備を改善すること(3)空港までのアクセスを改善すること、などについて要望が出された。交渉の末、翌3年から週3便で定期便が運航されることになった。

 平成4年に入ると、日本と英国との航空交渉が行われ、交渉の末、香港と日本国内の一地点との定期便の新設が決定した。そこで宮城県は直ちに若生副知事を団長とし、県・市・商工会議所などよりなる「仙台空港エアポートセールス香港訪問団」を編成して、香港ドラゴン航空本社、政府航空局などを訪問、交渉に当たった。その結果、翌5年には香港ドラゴン航空も週2便で就航することになった。

 それより少し前の平成3年には大連市旅游局副局長が団長をつとめる一行が來県し、県・経済界を訪問して仙台―大連―北京を結ぶ定期便の開設について協力の要請があった。その翌年も再度代表団が訪れ、空路開設の要望があり、これに応えて当地からも若生副知事を団長とする「仙台空港エアポートセールス北京・大連訪問団」が大連・北京を訪問、関係先に対して仙台空港のPRを行なった。こうした末、平成6年、日中間の航空交渉において仙台・北京間(大連経由)定期便の運航が決まり、同年、中国国際航空が週2便で就航することになった。

 平成6年には仙台・ホノルル間の定期便も就航した。これは日本航空によるもので、日本のエアラインが仙台空港から国際定期便を運航するのは初めてのことであった。もともとは平成4年に仙台空港の滑走路が2.5千メートルに延長した際、これを記念して宮城県と仙台空港国際化促進協議会が県・仙台市・仙台商工会議所などによる「エアポートセールス ハワイ州訪問団」を編成し、ハワイに派遣したが、その際プログラムチャーター便を運航したところ、高い搭乗率が確保されたため、これを定期便にきりかえる形で実現した。

 このように平成2年以来、わずか4年間にグアム・シンガポール・香港・大連・北京・ホノルルと国際定期便が急速に拡大し、仙台空港は一挙に国内有数の国際空港に成長した。さらに平成10年には中国国際航空が上海経由北京便を運航し、平成11年にはアシアナ航空が仙台・ソウル間に貨物定期便を飛ばすなど、国際化は貨物便にまで拡大した。





3千メートル滑走路の建設

 仙台空港の国際化をさらに推進するためには、滑走路を3千メートルに拡張する必要があり、これを実現するためには宮城県だけの対応では不十分として、東北6県全体で取り組むことになった。平成3年には東北6県の経済団体等による「仙台空港滑走路3千メートル実現期成会」が設立され、その会長には東北6県商工会議所連合会の氏家栄一会長が選ばれた。あわせて東北選出の国会議員による「東北拠点空港整備促進議員連盟」もつくられ、仙台・東京で政官民合同の総決起大会が開催された。

 こうした努力が実って平成3年の「第6次空港整備5ヵ年計画」(閣議決定)においては滑走路3千メートル拡張整備計画が採択された。さらに早期完成を求めて陳情・要望を重ね、遂に平成7年に着工となり、10年に完成・供用開始となった。これを機に仙台空港国際化促進協議会は米国および欧州をターゲットにして定期便開設のポートセールスを行った。

 平成10年には手島典男会長が東尾副知事などと共に米国ミネアポリスのノースウエスト航空本社を訪問して定期便開設の打診をおこなった。またフィンランドに行き、フィンランド航空本社を訪ねてヘルシンキ・仙台間の定期便新設についても要請した。このほか、平成12〜13年にかけては関係者が手分けして台湾の中華航空・エバー航空、タイのタイ国際航空などを訪問してエアポートセールスを行った。仙台経済同友会もミッションを編成してフィンランド、タイを訪問して仙台への定期便開設を要望した。

 こうした度重なるエアポートセールスにもかかわらず、各国とも仙台との定期便開設については慎重で、実現を見るには至らなかった。それというのも定期便を開設しても旅客の確保が容易でないためで、特に所得水準が低いアジア諸国の場合は自国からの観光客の確保には限りがあり、さりとて東北からどれだけの観光客を集めることができるかについて確信が持てなかったためである。





新旅客ターミナルビルの建設

 仙台空港の旅客数は前述のように昭和53年に100万人に達したあとも、年々増加し、55年には140万人を超えるにいたった。このため、旅客ターミナルビルは手狭になり、このため仙台空港ビルでは55年に増改築を行い、ビルをそれまでの2倍規模の6,100平方メートルに拡張した。翌年には旅客数は150万人に達したが、57年に東北新幹線が開通して東京便が廃止されるや、旅客数は激減し、60年には100万人を下回った。その後再び増加するようになり、平成元年には130万人まで回復した。

 そうした矢先、仙台・ソウル間の定期便開設が決定したため、仙台空港ビル鰍ヘ新たに国際線用ビルを建設することになった。当初は1,730平方メートルであったが、その後便数が増加したため、3,150平方メートルに拡張した。一方、国内線ターミナルビルの改築も行ったが、それもやがて狭隘になり、かたがた「第6次空港整備5ヵ年計画」において滑走路の3千メートル化が決定したため、あらためて東北の拠点空港にふさわしい本格的な新旅客ターミナルビルの建設が計画された。

新旅客ターミナルビル(平成9年)(仙台空港ビル株式会社提供)

 折りしも日米建設協議において、このビルが市場開放措置の対象となり、一般競争入札によって工事業者を決定することになった。その結果、設計はプロポーザル方式(公募)により日建設計と米国のヘルムース・オバタ・カッサバウム・インクの共同企業体が、施工は熊谷・東急・ベクテル(米国)・安藤・橋本店の共同企業体が、それぞれ実施することになった。平成6年に着工し、平成8年に国際線部分が、翌9年には国内線部分が完成した。延床面積は43,500平方メートル(国際部分18,200、国内部分22,300)で、地方空港としては新千歳空港、福岡空港に次ぐ規模となった。

 ちなみに、このビルの基本設計コンセプトは(1)ゆとり、安らぎ、楽しさの確保、(2)地域の人々とのコミュニケーション、(3)世界と結ぶゲートウエイの3点であった。建物のシンボルテーマは「光、風、夢」で、ガラス面を多用した外壁とトップライトによる自然光が「光」、波打つ大屋根が「風」、そして外国との交流や未来に対する憧れが「夢」であった。またこの種のビルとしては初めて「ハートビル法」の認定を受け、人に優しいバリアフリーを取り入れた。






仙台エアカーゴターミナル鰍フ設立

国際貨物便(仙台空港ビル株式会社提供)
 仙台空港の旅客数は年々増加を辿ったが、同時に航空貨物の取扱量も増え、平成5年度には国内貨物が約15千トン、国際貨物が約2千トンに達した。こうしたことから、新たに仙台エアカーゴターミナル鰍設立して国内・国際貨物を一元的に扱うことになり、平成5年に第三セクターとして設立された。初代社長には本間俊太郎宮城県知事が就任したが、まもなくして辞任したため、その後任に八木功仙台空港ビル且ミ長が兼務の形で就任した。なお、それまで仙台空港ビル鰍ェ扱っていた国内線の貨物取扱施設は同社に譲渡され、仙台空港ビル鰍ヘ旅客ターミナルビルの運営に専念することになった。

 その後の取扱貨物量の伸びは目覚しく、国内貨物は12年度約26千トンと5年度の1.7倍になり、国際貨物は11年度に約9千トンと5年度の4倍以上に拡大した。







最近の動き

 このように仙台空港は順調に発展してきたが、平成14年に米国で同時多発テロが発生し、続いて15年新型肺炎が流行するに及んで、海外旅行への不安が高まり、一転して逆風にさらされることとなった。同年10月には香港線とホノルル線が廃止となり(香港線は4月以降休便)、平成10年に廃止されたシンガポール線とあわせて主要3線が無くなってしまった。そのため国際線の旅客数は12年度の47万人をピークに減少を辿り、15年度には25万人まで落ち込んでしまった。幸い、国内線は微増となったが、両者合わせた国内外旅客数は15年度には315万人と8年度以来の低水準になった。

 ちなみに、国際線の旅客数は全国第7位(14年度は6位)、国内線のそれは第12位となっている。

 一方、貨物量も12年度の約35千トンをピークに減少に向かい、15年度には約28千トン(国内20千トン、国際8千トン)と7年度の水準に戻ってしまった。これは旅客の減少に加えて、「国際貨物の輸出入通関は空港に集中する」とした行政指導が規制緩和されて、どこの保税蔵置場でも通関が可能となったためである。

 幸い、15年には中国南方航空による仙台・長春線が新設されたのに続き、16年にはエバー航空による仙台・台北線が9月から運航となり、現在国際線は6線となっている。国際線旅客数は15年4月以降前年水準を大きく上回っており、今後仙台・バンコク線の定期便化も期待され、旅客数および貨物量の増加が見込まれている。

 一方、国内線も現在11線(大阪・名古屋・福岡・札幌・函館・広島・小松・岡山・高松・沖縄・成田)が運航されているが、旅客数はこのところ伸び悩み傾向にあり、一部路線については休止も検討されている。

 今後の仙台空港を展望すると、国際線のさらなる拡大も大切であるが、国内線の充実も重要であり、むしろ地域経済に与える影響は国内線のほうがより大きいといえる。これからの地域活性化を考えると、国内線にもっと目を向ける必要があり、仙台空港国際化促進協議会のあり方についても考え直す時期に来ているようである。





仙台空港アクセス鉄道の建設

 宮城県は平成6年(1994)に仙台空港臨空都市整備基本構想を策定し、仙台空港とアクセス鉄道を利用した都市づくり構想を打ち出した。9年には国もアクセス鉄道整備への財政支援制度の適用を決定し、12年に仙台空港鉄道鰍ェ設立された。その内容はJR仙台駅と仙台空港を結ぶ約17.5キロメートルに新しいアクセス鉄道を整備しようというもので、仙台駅と名取駅間は在来線を利用し、名取駅と仙台空港駅(仮称)間の約7.1キロメートルに新線を建設するというものである。単線・電化・高架とし、途中に関下、下増田の2駅を設置することになっている。

 開業は18年度で、仙台駅と空港を快速で約17分、普通で約23分で走る予定で、現在は自動車利用で40分であるから、相当の時間短縮になる。交通渋滞に影響されないので、定時性が確保されるほか、東北新幹線や仙山線などからの乗り換えが容易になり、東北全域または北関東からの利用客が期待できる。

 一方、途中駅周辺に新たな産業集積も可能であり、仙台都市圏の拠点性の高まりが期待できる。すでに関下地区には、東北最大といわれるショッピングセンターの建設が予定されており、アクセス鉄道の利用促進につながることが期待されている。

  (著者の宮城建人は勝股康行のペンネーム)





仙台空港の歩み(年表)
元号(西暦) 主な歩み 備考
昭和32年('57) 日ペリ航空(現在の全日本)、仙台・東京間に定期便を運航。
33年札幌便
 
   39  ('64) 第2種空港指定、「仙台空港」と改称  
   45  ('70)   仙台空港ビル叶ン立
   47  ('72) 2千メートル滑走路供用開始  
   51  ('76) 大阪便運航。52年名古屋便、53年福岡便、55年沖縄便  
   60  ('85) 東北新幹線開通に伴い東京便廃止 仙台空港整備促進協議会設立
平成元年('89)    同上を仙台空港国際化促進協議会に改称 
   2  ('90) ソウル線運航(アシアナ航空)
グアム線運航(コンチネンタル航空)
  
   3  ('91) シンガポール線運航(シンガポール航空)
釜山線運航(アシアナ航空)
 
   4  ('92) 2.5千メートル滑走路供用開始
広島便運航
 
   5  ('93) 香港線運航(ドラゴン航空) 仙台エアカーゴターミナル叶ン立
   6  ('94) 大連・北京線運航(中国国際航空)
ホノルル線運航(日本航空)
岡山便、高松便運航
  
   7  ('95)   輸入促進地域(FAZ)指定
   9  ('97) 新旅客ターミナル完成   
   10  ('98) 3千メートル滑走路供用開始
上海・北京線運航(中国国際航空)
シンガポール線撤退

   11  ('99) ソウル貨物線運航(アシアナ航空)   
   12  ('00) 新貨物取扱施設全面供用開始 仙台空港鉄道叶ン立
   14  ('02) 成田便運航(フェアリンク) 仙台空港線着工
   15  ('03) 長春線運航(中国南方航空) 香港線撤退・ホノルル線休止
   16  ('04) 台北線運航(エバー航空)   



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